historyいよとみの歴史
いつまでもお客様の故郷でありたい
冨永家は、愛媛県西宇和郡瀬戸町大字三机村で先祖代々農業及び漁業を営み栄えてきた旧家です。明治中期、冨永佐吉の代には漁業及び農業で当家の隆盛期を迎え西宇和郡でも広く知られる程であったそうです。
初代当主冨永熊太郎と妻ケイは、別府に於いて旅館か商人宿を経営することを思い立ち、愛媛での家と土地を売り大正九年に家族を連れて別府に移り住み別府駅前で宿屋を開業しました。その後、約三年間程別府で宿屋を経営しましたが、日田に旅館を買って移り住み別府の宿は閉じ、約二年間、日田に於いて旅館経営をしました。
二代目冨永佐喜義は両親と共に別府に来て独自に自転車の修理屋を開業し不慣れな新しい土地ながら一生懸命頑張りました。その後、大正十三年に由布院田中市で自転車屋を開業しました。当時、日田にいた両親や弟達家族皆を由布院に呼び寄せ、旅館「いよとみ」を始めました。
朝霧展望台からの眺め
旅館業を営む傍ら、佐喜義は人力車を引くなどして家族のために頑張りました。「いよとみ」と描かれたハッピをまといこの人力車引きを十二年間の長きに亘り続けてきました。これを支えてきたのが妻の愛子でした。二人は八人の子宝に恵まれ、多くの子供の養育と家事及び旅館の切りまわし等で忙しくそれはそれは大変な日々の連続であったそうです。
昭和五年に、汽車爆発事故で佐喜義は実弟を亡くしました。大分市の予習学校の入学式の日に、大分まで汽車通学をする実弟勇の乗った列車の機関車が爆発、列車火災を起こし(一説では石炭の中にダイナマイトが入っていたという話です)実弟勇が事故死しました。この時の冨永家の家族の悲しみは並々ならぬものでした。鉄道省より当時の金額で三千円の見舞金が支払われ、その資金を元手にして現在地に土地や家を買い温泉旅館を始めました。亡き弟の供養の為にも家族一同が一致団結して稼業に励みました。
由布岳と大分川
佐喜義の後を継いで三代目となったのが八人兄弟のうち六男の勇でした。昭和四十年、勇は当時勤めていた宮崎銀行を辞め両親と「いよとみ」を守っていこうと由布院へ戻り稼業を継ぐことを決意しました。昭和四十二年春、近くに住む仕出し店「小松屋」の長女邦子と結婚しました。勇は地元と共に生きる宿を目指し町内、又は自治区の役柄を何でも引き受けました。旅館はしっかりと邦子が守り、やがて三人の子供が産まれました。当時は、三階建てで由布院でも大きな宿でした。「旅館いよとみ」を勇は「民宿いよとみ荘」としました。小さくても良い、お客様と直に触れ合いたかったのです。勇はお客様と朝が来るまで酒を酌み交わしご自慢のギターを抱えて一緒に歌を唄いました。邦子は笑顔を絶やす事なくお客様と一緒に花を植えたり短歌を詠んだりしました。そんな温かい宿づくりを目指した二人にも沢山の悩みがありました。「何処へも 連れて行かれぬ子ら想ふ 子連れの客にお茶をいれつつ」と邦子は詠っています。人を愛し酒を愛した勇は平成十一年五月、愚痴ひとつ言わず皆に優しさと笑顔を贈った邦子は平成十二年四月、共に病に倒れこの世を去りました。古くからの常連のお客様はおっしゃいます。「仲が良かったけんなー」。
戦時中は入浴客が殆ど来ず、宿泊客も無く大変苦労しました。食料事情が大変悪く宿泊客にも麦飯やうどん等を出していた程です。昭和二十九年の洪水で列車が不通になり宿泊客が全くこなかったときも苦労しました。先代亡き後は、若い四代目希一と従業員一同一致団結して毎日頑張ってきました。
そして、これまで幾多の困難を乗り越え続いてきた「いよとみ荘」は平成22年11月16日、その宿を一新し、「由布院 いよとみ」として新たな船出を果たしました。「いよとみ」は時代と地元と、多くのお客様の支えがあったからこそ続けてこられたという感謝の気持ちを決して忘れることなく、これからも豊富な温泉と温かい気持ちでいつまでもお客様との時間を大切に過ごせるよう頑張り続けます。
変えてはいけないもの、変わり続けなくてはいけないものをしっかりと見据えながら、由布院に新しい風を吹かせていきたいと思います。
「いよとみ」がいつまでもお客様の故郷であるために・・・
由布院いよとみ
代表取締役社長 冨永 希一
Kiichi Tominaga